最近、投資の中に ESG – environment, social and governance- とか SDGs – sustainably developed goals – 、TCFD – taskforce for Climet-related Financial Disclosure – という言葉を散りばめて投資の呼び込みの手口を働きかける(ここ以上に怪しい)コンサルとか、投資を促そうとする運用会社とか、取引所とか(笑)果ては行政機関とか(爆)増えたというか、そんなのばかり、という気がして仕方がありません。
実際、最近私が深く関わっている、というのが公然の秘密になっている某運用会社で立ち上げたセカンダリー戦略ファンドのDDQ – due diligence questionnaire – も ILPA – international limited partners association – 要は世界的なプライベート資産への投資家の団体の標準的な質問票 (Questionnaire) に準拠するように数10ページにわたるものを作成していたのですが(ライセンス回避でファンド運用をしようとしている人たち(もしくは、その振りをして投資家のお金をいいように使おうなんて考えている不届き者ども)、本気でまともな投資家さんと向き合うならば名刺がわりにそれくらい作らないと、ですよ。と言って、これを作ったからと言って投資家が投資するわけではないですが。。。)、その後半の質問は主に、運用機関の ESG の取り組みのみならず投資先企業への ESG の取り組みの推進度合い、であったり、diversity and inclusion – 日本語ではそのままカタカナでダイバーシティ・アンド・インクルージョンで使われていますが、単純に社会とか組織の多様性にのみならずそこにより多くの多様性のある人や考え方、ライフスタイルなどを内包し受け入れていくか、という概念への取り組みについて答えることが求められていました。
また、ちょうどこれを書いている最中(といいつつ、既に1ヶ月以上経っています。あ、その時の雑感は某運用会社の従業員ブログに載せる、はず。今書き上がったから(笑))に毎年訪問しているベトナムの運用会社の投資家年次総会に参加した際にも、ベトナムのプライベートエクイティ投資にも拘らず(いや、欧米の贈収賄関連の法律のおかげで海外からの企業投資のリスクが最も高い国の一つ、とまで言われたこの国だからこそ、投資への安心材料として)、欧米のスタンダードレベルのESG 目線での投資判断を入れている、ということで、その投資のアドバイスをする ESGコンサル会社によるプレゼンまで行われたのです。
そこのいずれの根底には多分、日本より先を行っているだろう海外の投資家の投資・運用に求める社会への還元という考え方やそれ以上に超長期的なブランドイメージや経営資源の保全が根付いたものの表れ、なのかもしれませんが、そこは少数先鋭といえば言葉はいいが、実質平均年齢50才以上のおじさんたち6人プラスアルファな組織では最初からダイバーシティどころか偏りしかない組織ですので何を語りそれが投資のアルファに影響するのか、なんて難しいどころの騒ぎではないのです。
とはいえ、世の中はそういうことを求める風潮にあるわけですが、さて、本当にそれって投資を通じて実現できるのでしょうか。いくつかの、そしていくつもの現実を踏まえていつものように超個人的目線で語らせていただきます。ストラクチャーなのに的外れな投資を語るのか、なんて言わないように。
ESG – 日本は本当に機能している?
まず、個人的にこれだけは言いたいんです、日本におけるESGに対して。
チェックボックス的なアプローチでやってるように許してもらおうとする企業と、それを後押しするESGコンサルが多いのに、日本は本当にESGしてるって言えるんですかね?ただの言葉に踊らされている連中ばかりで本質を見失っているじゃん。
日本におけるEの指標って、何でしょう。
すでに1970年代から環境汚染への配慮というのは始まり、資源輸入国の立場でどれだけ資源の有効利用を追求し続けて、かつ(経営的観点からも) Zero Emission – 廃棄物のない工場とか製品とか、作り続けているもの作りの国ですよ。世界の排気ガス規制の対応も速やかにし続ける国ですよ。
と多くの日本人は思い、またそう言ったところで、企業はまず売れるために消費者などの利用者の利便(というか、甘やかし)を考えながら作るわけですから、消費者の利便によって環境破壊が起きたところで認知されるまでは便利を最優先させる社会です。後述の TCFDにハイライトされる気候変動リスクとか超長期のリスクというより、目の前の利便性と利益がそれでも強調されることは、災害が起きない限りは気がつかないと言う意味で稀です。
例えていえば、本気でプラスティックゴミを減らすならストローではなくてカップや蓋、ペットボトルをやめて、個人が日々持ち歩く義務を負ったステンレスのマイマグに注ぐだけにする、とするという動きにまでしないといけないのが、単純にストローだけ、な話じゃないですか。利用者の根本である行動規範が変わらない限りこの問題って解決しないわけで、ハワイのプラスティックバッグ禁止や電動の公共バスに全面置き換え、のような行政の大胆なアクションによるルール変更のいずれか、しかないのです。
言い換えれば企業が社会的ムーブメントを起こしてEを押し進めるのは、社会のルールすら変えるゲームチェンジャー的アプローチとリスクを追いながらビジネスを行うこととある種同義であり、その意味ではドラスティックなことを上場企業が株主を背に行えるリスクではあまりなさそうにも思えるのです。
その環境下での企業にとっての Eってどうするんでしょうね。絶対に後追いの指標にならないように出来ていることしか出てこない指数にしかならないはずなんですよね。
日本の Sってなぜ女性進出だけ?
社会性を語るのに、確かに男女平等とか女性の社会進出とか日本の過去の社会を踏まえれば当然に考えるべき問題でしょう。女性の働く生き甲斐、というキーワードに隠れて、特に今後の労働人口の減少を男性だけでなく女性をより多く働かせることで何とか維持しようという政府の思惑だってあるわけですから。
でも、社会の問題ってそれだけでしたっけ?原理主義者や人気取りの政党の主張とは言わないけど、よく上がるのは、貧困による教育や社会進出機会の損失の問題?それの裏側にある貧困による低年齢層の労働問題?国籍や生まれのルーツ、生まれ持ったか後天性かは問わず病気や事故などに起因する肉体的もしくは精神的事情によるローカルコミュニティからの隔離?単純にあちこちの組織で起こり得て、日々新しい言葉として生まれる「なんちゃら」ハラスメントの数々?
それもこれも誰も当事者が「不快に感じる、きっと私以外も同じように感じる」なら問題だ、と声を上げて#mexoo と言う言葉を絞り出して仲間にして、こんな私たちという集団にとっての機会損失問題だ、社会構造の不全だ、と言われればSの問題になるわけですが、女性進出が一番問題、と考えるのは人口の半分が女性だから影響を受ける人が一番多い、という単純な問題で済ませていいのでしょうか。確かに女性の社会進出だって大きな問題ですが、これらいくつもの問題のバスケットだって作れて然るべき、なのです。金融はバスケット指数を作るのがとても上手な業種なのですから。。。
日本のG に問題は存在しない、とまで豪語する人がいるそうで。。。
ええ、ガバナンス- 内部統制の問題、というのは上場企業でも、非上場であっても外部から株主であれ債権者であれいる場合には、その人たちの利益を損なわない仕組みを作っているかどうか、という問題、に帰結するはずなのです。
他方で、会社法などが求める外部監視構造の導入によるガバナンスの構築は、確かに何もしないよりは大事かもしれないものの、その実効性のテストや外部評価をベースにしたものではなく、「導入したか、しないならば導入しない理由を問う」、というやるやらない問題、格好よくいえば “comply or explain” にしたがために、前述のような「形式上でもやったら許してもらえる」= comply to avoid explain を誘導しているにすぎないので、法律問題とすり替えて(正しく会社の運営が機能するかどうかなんて気にしないで)女性社外取締役を派遣する弁護士を生み出しているのを始め、comply するためだけの数合わせ的アプローチという形骸化を促進させているとすら言える側面があるように思っています。
現実に社外取締役が社内の体制把握を行い(ということは、社内の担当事業・部署の従業員等とのコミュニケーションを取れるように関係性を構築し、なんて仕事だからやれ、と頭のいい連中が頭ごなしに言ってすぐに正しい情報が取れると思ったら大間違い)、その情報を評価して取締役会でフィードバック出来るようにするには社内取締役と変わらない時間を費やすことを短期的とは言え求められるのですから、実際には映画の取締役会のような自分の知識と経験だけを論評の如く無責任にコメントするに止まるような仕事ではないし、それ以上の責任を株主から期待される仕事、なはずなのですが。。。
とすると、どうやってこのガバナンスが機能しているのかを内部評価だけで完結できるというのでしょう。数学の世界では「それ自身が閉じて完全な世界は矛盾がある」といういわゆる不完全性の定理があるのですが、それが純粋な数学の世界だけに止まる話とは到底思えないのですが、その内部評価だけをガバナンスの実効性とした指数だとしたら、それってどれくらい有効なのでしょうね。
というか、そもそもG = 内部統制、と言ったときに、会社の活動が会社を取り巻く様々なルールに従って行われているか、というところが問題であって、それが例えばCEOの趣味でサーフボードの会社を気付いたら買っていた、という大きな買い物でかつ会社の当初の目的から逸脱しているような大事から、従業員の中でもそこそこ予算等を動かせる立場にある人間が取引先の選定の見返りでキックバックをもらえるよう高い仕入れコストを容認していた、というちょっとした商慣習と紙一重の背任行為、果ては経理部がドラマのように毎週毎週社員の経費請求の形で横領をしているのを探さねばいけない、的な「物と金の流れの適正化」がなされているか、とか、それこそ「なんちゃら」ハラスメントを客観的に(ええ、日本だと我を顧みないマネジメントが多いそうです。と言うか多かった。)容認しない会社構造になっているか、とか会社の活動のルール化と監督行政の求める法令遵守、そしてその実地に対する監査機能の有効性、というのが根っこにあるわけなのです。
とすると、日本的ガバナンスって胸を張るのはいいのですが、それって日本の古き良き暗黙の了解で社員が動く限りはいいよね、的なことをいいたいのですかね。それのいい点も悪い点も知っていますが、他人様のお金を預かってビジネスをしている、という観点では、昔の「地元の大金持ちのお仕事だから、ちょっとくらいお目こぼしがあっても当然」の前提感と変わらない気がしてなりません。。。
それを踏まえるとESGの使い道って
そうなんです。ESG指数に依存してもどんなご利益があるのか全然見えてこないし、ESGの啓蒙活動を運用会社がしたとしても、それって特にアクティブ運用ならなんとなく効果はわかる、かもしれないけどパッシブになった時に誰のご利益?その費用対効果の計測ってどうするの? – 単にスチュワードシップコードを満たそうとしている運用会社の自己防衛本能?という問題に陥るようにしか見えてこないのです。
エンゲージメントの時に書いたように少数株主の会社や取締役会への影響力というのはいうほど大きくなくて、だからと言って声と投票数を束ねるべく集団エンゲージメントをESG的なことにするにも、そういうニーズを束ねるのはエンゲージメントコンサルタントかエンゲージメントファンドのような煽動的な(ベーっだ)アービトラージャーと原理主義者との紙一重なところにいるわけです。言い換えると、それが無理やり一社だけ変えることとその株価への反映というのが正直不透明、というか個人的にはただの仕手筋の提灯と何ら変わらないのではという印象を持たざるを得ないのです。当局などの介入の全くない自由経済を信じる立場としてはね。
さらに言えば、株主が株を持つことでその会社を応援する、っていいますが本当に応援できてるんですかね。買うときの価格構成の手助けはしますし、持ち続けていれば招かれざる投資家の手に株が渡ることもない、という意味でサポーティブではありますが煽動的なアクティビストの心地良さそうな言葉に騙されるリスクをまだ抱えているんですよね。そう、持っているだけで会社へのフィードバックないし、逆に会社もそう言うフィードバックを(実務的に)拾えないし。そう考えて、不特定多数の投資家へのIRコストや株主優待、上々維持するための法定監査費用のようなものという「上場コスト」というのは、本当にそれを報いるだけの費用なのでしょうか。自分の会社を含めて非上場企業をみてきた立場としてはいつもここが疑問に思うんですよね。そうなった場合に、ここにさらに「追加的な」 ESG対応コストを載せることが果たして会社の本当の成長と、そうやって持ってもらっている不特定多数のサポーターである投資家に報いることができるなのでしょうか?定量的な評価は難しそうですよね。
となると、ESGの使い道って投資家として、エンゲージ的に対応させることを企業に求めるというよりは、それぞれの企業において既にあるESGの対応状況を基に長期的に投資可能かを評価する方がまず実効性が高そうに思えてきます。
例えば、Eに対するリスクがある、という企業があるとします。British Petroleum (BPの方がわかりやすいか)は原油の採掘から輸送、精油、販売まで手掛ける、名前でこそBritish と英国系ではあるものの多国籍企業ですが、原油関連がその企業の根幹をなすため、天然ガスから太陽光などの再生エネルギーと言ったエネルギー関連全般をグループ内で手掛けることで化石燃料とその燃焼による二酸化炭素排出問題による影響を軽減させようとしている(E的にポイントが上がりますね(笑))一方で、原油の運搬の際の事故による海洋汚染とその賠償金の負担、と言ったE的に大きく減点されるリスクがある、ということで、これらの両サイドのリスクをどう判断するのかが評価のポイントになります。
もし、海洋汚染のための賠償金負担のようなダウンサイドリスクに重きを置くならば、この企業は投資すべきではない、というネガティブ・スクリーンで排除する必要があります。他方で、再生エネルギープラントの設立・供給やその送電インフラと言った未来を作る企業という将来性を評価をするならば、ポジティブ・スクリーンで入れる必要が出てきます。
そして、他の再生エネルギー関連企業と合わせて保有することでEのバイアスのかかったエネルギーインフラのポートフォリオを作る、という社会の持続性に対するテーマ投資という新しいセクター投資、と見ることができます。
上記はEに限って議論しましたが、SやGに対しても同様にその企業のビジネスの本質や開始しようとする新規事業に対してこのような側面での長期的視点でのネガティブ・スクリーニングやポジティブ・スクリーニングのようなリスク評価をすることが可能です。
言い換えるならばESG投資、というと、このような3つの大括りの、でも社会と人類の持続性を踏まえた要素に置ける、将来の「偶発的リスク」を評価し投資するしないの判断をする、と捉える方が「その投資を生かす」ことができるのかもしれません。運用会社がエンゲージメントしてどうこうする、という話よりより現実的に社会への貢献(もしくは明日に残る企業の選別)をしている、もしくは、社会に逆行していないか確認している、ように思えませんか?
これは、企業の立場で言うならば、もし投資を受けたいならば、これらの将来に起こり得るビジネスから発生し得る事業以外のリスクに対する備えをちゃんとするようにしなさい、という自発的行動を促すもの、のはずなのです。
と、こう書けば、投資をおこなう投資家の代理人である運用会社は日頃投資先と会話をするのだから、そういう会話をしてESGの側面での企業価値をあげる仕事をすべき、というストーリーになるんじゃないの、といいそうですよね。でも、それってアクティブ投資で投資して初めて投資家から受け取った報酬で行うべきものであって、例えば、投資対象になりえる(ということは、まだ投資しておらず有望だと目をつけた)という企業に率先して行うべきなのか?というと、スチュワードシップコードの記事の中で触れた通り、より高い報酬を払わされている(ベーっだ)アクティブ投資ポートフォリオにおける既存投資先との相対評価の観点で言えばアクティブ投資家の利益に対して相反が生じる、と考えることも可能です。
いわんやパッシブ投資先と言った場合は、確かに社会全体をより良い方向に変えるという概念で言えば正しいでしょうけど、そもそもパッシブって受け身です。自ら働きかけることなく、受け身の結果をそのまま届けるのが仕事なのですからパッシブという概念に合わなくなる、と思うのです。それとも、パッシブで TOPIX投資をして、日本のすべての企業に働きかけて日本を満遍なくよくするのが超低コストのパッシブファンドの運用会社のする仕事、だとしたら費用倒れという経済合理性すら失うのと同時に、政府による産業育成とかも不要になると思うのですが。。。
SDGs – より社会問題解決という観点で見るならスタートアップ投資が強化されるべきなのに
SDGs ってよく言われるのですが、そもそもこれって、「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」の2030年までに解決を目指す17の目標と169のターゲット、からきています。これらを実現するために、人類は持続可能な開発 – sustainable development – をいかに進めるかを考えて実行していこう、という話なのです。日本語でのUNの公式サイトを見るとわかるのですが、これらの17の目標に対して、国としての目標達成に対する行動を求めていて、それに呼応するように、その影響の大きい企業への行動を求める働きかけを日本ならばグローバル・コンパクト・ネットワーク・ジャパン (GCNJ)という国連の一組織が呼びかけている、という構図です。なお、このGCNJは
各企業・団体が責任ある創造的なリーダーシップを発揮することによって、社会の良き一員として行動し、持続可能な成長を実現するための世界的な枠組み作りに参加する自発的な取り組み
http://ungcjn.org/gc/index.html
ということで、またこの基本となる国連グローバルコンパクト (UNGC)は
UNGCは、1999年の世界経済フォーラム(ダボス会議)の席上でコフィー・アナン国連事務総長(当時)が提唱し、潘基文現国連事務総長も明確な支持を表明しているイニシアチブです。企業を中心とした様々な団体が、責任ある創造的なリーダーシップを発揮することによって社会の良き一員として行動し、持続可能な成長を実現するための世界的な枠組み作りに自発的に参加することが期待されています。2000年7月26日にニューヨークの国連本部で正式に発足し、2004年6月24日に開催された最初のGCリーダーズ・サミットにおいて腐敗防止に関する原則が追加され、現在の形となりました。
ngcjn.org/gc/index.html
現在(2015年7月時点)では世界約160カ国で1万3000を超える団体(そのうち企業が約8,300)が署名し、「人権」・「労働」・「環境」・「腐敗防止」の4分野・10原則を軸に活動を展開しています。
なのですので、やはり企業による自発的な取り組みを求め、促すことが世界を持続可能な社会にしていこう、という発想が根底にあるのです。まぁ、だからこそ、国は証券取引所などの機関を通じて私企業に対する行動を促しているわけですが、この記事の読者である個人などの「投資家」にとって、これは何を意味する、と解釈すべきなのでしょう。少なくとも、前述の ESGのような「株主だからこれをやれ、と投資先企業に押し付けるのが投資家としての経済合理性からみて明らかにおかしい」、という理解に基づいて、です(よそは知らんけど)。
社会問題って、言いたくはないけど、世界みんなの「お悩み」です。解決する方法を示すとみんながその解決する方法にお金を出してくれて「解決」しようとします。これは、その昔、物が不足していたときに物を作ればみんなが買う、だから売れたのと、基本的な構図としては変わりません。ないところに必要な物やサービスなどを提供する。それが21世紀になると社会問題という呼び方になり、解決方法、という物だけでなくサービスとして売れ流、ということに置き換わりつつある、というところなのです。
とすると、最初からそういう社業でやっている会社は志としてはとてもいいと思います(チェックボックス的SRI/ESG/SDGs の観点ならば)。でも、既に上場しちゃっているならば、それで評価がされているので特段何か嬉しいおまけをつけることはないでしょう。だって既にその社業を通じて社会貢献しているのですから。
問題は、これからやろうとする上場企業なのか、ベンチャー企業なのか、について、です。上場企業ならば新規事業という扱いで、それへの取り組みは前述のESGの観点で何かしらにポジティブですが、通常は新規事業の追加だけで、投資家が期待するような企業価値が大きく跳ね上がる、というのはそうそう期待できるわけではありません。もちろん、その企業の安定した収益源となることは(やり方を間違えなければ)確かでしょうけれども、SDGs の問題解決一つが企業の収益構造を大きく変えることはあまり考えられません。ということは、投資という意味で、株価の安定性や成長性に確かに貢献する、というより、その安定剤の役割を果たすものの、爆発的な収益をもたらすものではなさそうです。ま、通常の投資、と呼ぶ安定収入を目指すならそれでいいはず、なのですが。
その点で言えば、ベンチャー企業が、この社会問題を解決するサービスや製品の提供をする、と言うのは、ど直球すぎるけどわかりやすい話です。しかも、それの事業収益性そのものがその社会問題への関心と資金拠出しても良いと思わせられるほど「セクシー」なものかどうか、と言う経済合理性での判断になり得るからです。結局、残念ですが、問題解決してご利益がそれ相当にないと解決してもらえないのです(ま、それは上場企業が取り組むときだって同じはずですが、経済合理性以外の理由でやり続ける、と言ったことが体力のある上場企業なら出来ちゃうのでこれが事業の存続に対する評価として機能しない可能性が残ってしまいます。その意味では、ベンチャー企業にとって、株主が信じて全財産投げ打っても実現させたい夢だから、でやり続ける可能性もあるのでなんとも言い難いのですが。。。)。
で、あまりいいたくないのですが、このような政府機関等が社会問題だ、と掲げると、そこがまずビジネスチャンスだと言って人が注目し、また補助金等を期待することでさらに人が注目し、と言うことで、いい意味で言えば競争とその結果の問題解決の高度化が期待できるものの、悪い意味で言えば競争による収益性の低下とシェアの確保の困難などの問題が生じるんですよねぇ。普通に考えると。となると、確かに体力のある大手企業が参入する方が好ましいかもしれないけれども、ベンチャー的なアプローチが必要不可欠であり。。。CVCで投資するんですかねー。個人の(小額)投資で手に負える話ではないのかも、実際には。
TCFD – 気候変動を如何に評価するか、って、上場企業だけの問題ではないけれど
TCFD とは、いわばこのところの気候変動のリスクを自社の財務諸表やビジネスそのものに適用した場合、どのようなリスクがどれくらいインパクトしえるかを財務諸表等に合わせて開示するように、と言う統合報告書(財務諸表に表現できない非財務情報を株主等のステークホールダーに開示する報告書のこと。この非財務情報には、前述の ESG評価 – 日本では内部統制レポートが基本として求められているけれど、それに限らない)の流れの最先端、と言うべきものです。
金融、特に有価証券ポートフォリオなんて管理していると、その金利に対する感応度、すなわち、もし金利が上下1%上下したらポートフォリオの価値はどう変化する?のようなリスク測定を金利に限らず、為替とか、株価指数などに対してするのが一般的です。ファンドの財務諸表の注記欄にそう言う分析も入れられています(気づいていますか?)そのいわば気候変動版、要は平均気温が1度上昇したらビジネスはどうなる?です。
現在の上場企業の有価証券報告書を見ていると(今、ざっと先日インドでご一緒させて頂いた 国光さんの Gumi の有価証券報告書を読んだのですが)結構色々と細かい分析もさせられていることがわかるのですが、流石に気象変動に伴う事業への分析というのは見つけられませんでした。でも、TCFDではそれ「も」入れろ、というわけです。ずいぶん前の自分の記事で、統合報告書って誰が読むの?個人投資家の9割は絶対の読まないし、と書いたように、どうしたって多くの状況を説明しようとすると文章は(このブログと同様に)長くなるし、全部読まないと(このブログですらそうなのですから企業への判断に対して)ミスリードを生み出すし、ということで、この手の資料に対する読み手を選ぶ、のです。
他方で、書くほうも気象変動に伴う事業への影響を考える、というのはなかなかの想像力を求められるのです。よく言われる
- 気温上昇に伴う海岸線と都市機能の移動や人口動態の変化
- 平均気温上昇に対する農作物や畜産などの一次産業への影響
- 生活環境の変化に伴うライフスタイルの変化
あたりは私ごときですらぱっと思いつくところですが、その変化の状態を踏まえての長期的な世界の変化とそこから今の事業への影響を想像するという作業は SF作家並みの想像力が必要でしょうね。その意味ではよく使われる話ですが
某スターバックスでは将来的にコーヒー栽培の出来そうな国や地域の農家に対するコーヒー栽培技術の無料での提供を行っているが、これは温度上昇による現在のコーヒーベルトの移動を想定しての青田買いとブランドイメージの一つであるフェアトレードという社会問題の解決の両方を狙った長期投資
と言われると、ものすごくわかりやすい事例ですね。でも、こういう企業による超「先行投資」は先のTCFD を通じての事業リスクの分析に基づくものですから、現行の事業やブランドの長期に渡る維持を考えるならば必要といえば必要なのです。
とはいえ、前述のESGでいえば、EとSの領域の議論であったり、SDGs の 13: 「気候変動に具体的な対策を」という世界的社会問題の一つにおける企業の評価方法であるので、何も新しい議論でもない、と言われればそこまででしょう(某スタバさんがTCFD以前にこのようなアクションをとっていた、と言われても納得出来ますからね。実際は知らないけど)。
ただ、投資家としてこれをどう考えるか、といえば、統合報告書のような分厚く読みづらい会社の年次報告書の中にTCFDのようなものがあったら、数値的なものをどうこうするよりも、どういうリスクがこの会社で理解しているか、それに対するアクションはどう言ったビジョンで行おうとしているのか、というストーリーを読み取りつつ、やっていない企業に比べて「吾唯足るを知る」だけ評価する(評価だけですよ、それだけでは投資にとはいいません。)に足る企業と見るだけで見方も変わるでしょう。間違ってもエンゲージメントでTCFDをしろ、なんていうべきではないのです。現時点では経営者の想像力と行動力を推し量るにいいツールだ、と思えばいいし、もし誰もがやるようになったら、その内容と実現に対する進捗を測ればいいのです。
まとめ
ということで、多分ESG信奉者に喧嘩を売り、SDGs 原理主義者に肩透かしを食らわし、TCFD期待論者の口をアングリ開けさせた記事になりましたが、投資って結局、安く買って高く売れてなんぼ(しかも、この順序が入れ替わってもいいの)ですから、今と将来の図をこれらのファクターを通じて描けて、その結果右肩上がりなら買えばいいし、右肩下がりなら売ればいい、のだと思うんです。
でも、このファクターが今までのものと大きく違うのが、従来以上に高まった社会からの企業に対する要請や義務、責任や貢献などを色濃く反映し、またそれらに反した時の企業価値の下方修正のダメージの大きさが従来のファクターより大きい(言い換えれば、これらを満たし続ければ大負けしない)、ということで企業も意識すべきだし、投資家としてはその指標を無視できない、ということなのです。
でも、一歩間違えがちなものでもあるので、そこは熱くならないように。投資が国や世界を変えるんじゃないんです。世界を変えるところに投資する、のが多分正解なのです。そして、その世界を変えるところ、というのは、案外近くにあるかもしれないし、本当はないかもしれない。だから、常に好奇心を持って探索し続けないといけない、のでしょうね。
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